「かもめ51号」は鳥栖駅で混雑のピークを迎えてから、佐賀駅からは逆に乗客を減らしていき指定席にも少しずつ空席が出てきた。しかし、肥前鹿島駅到着のアナウンスが流れた直後に電車が急ブレーキをかけて駅間に停車した。私はうつらうつらしかかっていたが、急ブレーキで目が覚めた。止まる時に車輪が確かに何かを踏んだ感触が伝わってきた。
当初は障害物を轢いたとのことで、運転士が現場に確認しに行った。スピードが出ていたので、現場は停止位置から300mほど後方だったそう。15分ぐらい経って障害物が人間だったと判明し、パトカーと救急車を呼ぶことに。後日のニュースで知った話では人が線路に寝ていたらしい。故意か過失かは知らないが…。
パトカーと救急車はそれから30分ぐらいしてから到着。田んぼの真ん中だったので現場まで入るのに苦労した模様。その間乗客は缶詰状態。運転再開にはしばらく時間がかかりそうな感じがしていた。肥前鹿島駅のすぐ手前だったのにこの状態↑で1時間以上待たされた。私はホテルに電話をかけてチェックインが遅れる連絡を入れた。
結局75分遅れで長崎駅に到着。駅の時計は1:12を指している。肥前鹿島や諫早から先の乗り継ぎ客にはタクシーが手配された模様。思案橋近くのホテルにチェックインしたのは1:30で、ホテルのフロントにも同情されてしまう始末。一風呂浴びて寝たのは3時過ぎ。長崎の始まりにとんだケチが付いた感。
前日、福岡→阿蘇→福岡→長崎という大移動をして、深夜にチェックインしてぶっ倒れた割にさわやかな目覚め。食事なしの宿泊プランだったので、ブランチを兼ねて何となく中華街へ向かうことに。その途中に遭遇したカステラの福砂屋の長崎本店。老舗らしい立派な佇まいで、車で買いに来る人も多数。みんなそろって遠方ナンバーだった。
福砂屋のそばにあった丸山町交番。いつごろの建築かはわからないが、石造りで洋風&レトロな建物が印象的。この辺りは現在は長崎市随一の歓楽街で、明治時代には遊郭があったそう。昔も今もここを拠点に長崎の治安に睨みを利かせているところと言える。
地図を見ずに昔の記憶を頼りに何となく中華街の方へ歩いていたら道に迷ってしまった。普通の住宅街の中を歩いていたら思いがけず発見した「天后堂」という唐人屋敷跡。唐人屋敷とは江戸時代に貿易関係で居住していた清国(中国)人の居住区。明治39年に再建された長崎市指定史跡。
天后堂のすぐそばにあった防火用水の水槽。「水用火防」と逆読みになっていることからして相当な年代ものと思われる。ひょっとしたら原爆が投下される以前からあるものなのかもしれない。草が生えているので本来の用途は成していないが、こんなものが街の片隅にさりげなく残っているところが凄いと感じた。
動きとしては高台から平地へ下りるような動き。路地の先はずっと下りになっている。長崎は坂の多い街として有名なのを改めて実感。この先に目指すべき中華街があると信じて歩いた。
↑の路地の脇にあった温泉(銭湯?)。建物は普通のコンクリート作りに見えるが、外壁はどこか中国っぽい装飾が施されている。男湯のドアの脇に「福禄寿三星在戸」という看板がある。どういう意味だろうか???
唐人屋敷の中心的な建造物である福建会館の正門。福建会館の建物も正門も明治期に建てられたが、原爆で建物が倒壊してしまい、残るは正門と天后堂のみ。正門は長崎市指定有形文化財に指定されている。
思案橋のホテルから大幅に遠回りして中華街に到着。思いがけず唐人屋敷を見学することができたため、無意味ではなかったが…。昼食のピーク時間帯より若干早かったため人はさほど多くない。食欲をそそる香りを漂わせる豚まんの誘惑を断ち切りながら、素敵な皿うどんが食べられそうな店を探す。
20分徘徊して何となく悪くなさそうで、並ばないで済む店に入り皿うどん(左)と焼きビーフン(右)を注文。皿うどんは麺がバリバリと固いタイプではなく、半乾半生タイプのもの。好みはあると思うが、私はそれぞれでおいしいと思うので特にこだわりはない。両方とも味は期待を裏切らなかった。
(長崎編つづく)
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